不材の喜び [まいでぃあらいふ]
中国の古典寓話に「不材の喜び」というのがある。
商丘という所に一風変わった大木があった。
四頭立ての馬車千台が園木の下にすっぽりと隠れてしまうほどの大木だった。
子纂(しき)が「これは何という木だろう。素敵な良材になるに違いない」と呟きながら、仰向いて小枝を見ると、曲がりくねっていて棟木や梁に成れたもので
はなく、大きい根を見ると、これは空洞があって棺桶にも使えない。また、葉を舐めると、口がただれて傷になり、臭いをかぐと三日経っても悪酔いが抜けぬほ
どである。そこで子纂はこう言った。
「これは結局、世間では無役の木なんだ。だからここまで成長できたのだ。神人とよばれる至徳の人が、その生命を全うすることが出来るのは、こういう不材無役の理によってそうなるんだわい」と。
無為の道を心得た至人は、自分の功績、才能を見せないから、他人の目につかず、それが天寿を全うできるという遇詩。
人が故郷を思うとき、その記憶は巨木の存在と結びついていることが多い。幼い頃の記憶は、大きなケヤキや杉の木と共にあったりする。子供の頃は大きな木に登ったり、そこに隠れ家を造ったりしたものだ。故郷の存在は木と共にあったと言っても良いぐらい。
木を失うと、人はそこから去ってしまう。その土地への愛着が無くなるのだ。美しい物がそれを契機に壊されていってしまう。
無駄だと思われる存在をどれほど許容できるか、それが社会の幸福の尺度ではないかと思う。
しかし、材、不材を語らざるをえないのが人間界。幸せに背を向けて歩いていくしかない。
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