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学びと遊びー先人の言葉に思う [山に遊ぶ]

Hiuchigatake.jpgまた暫く日記が滞ってしまった。

あれから秋の尾瀬、赤城山、裏磐梯と遊んできた。

山に接する楽しさとは日常の喧噪から離れることだけではないようだ。歩いていると物思いにふけることができる。農作業でも同じ思いに浸れる。

 

 

 

 湿原と燧ヶ岳

明瞭な疑問とまで行かないが、なにがしかの答を必要としている何かを考える。考えるには学ぶ必要がある。回答がふと浮かぶ。それは自分がそうあって欲しくない解かも知れないが、心の何処かに引っかかっているトゲが抜けた喜びはある。

 

ヒツジグサ、美しい華だ。
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絶えず疑問を留めておくにはかなりの体力がいる。回答を出すには勉強しないといけない。「学ぶ冒険」とは旨い言葉で、情熱、それが学ぶ姿勢の根本だろう。情熱無くして疑問も学びも無い。情熱は人の持つ煩悩とも言える。瀬戸内寂聴は最後の煩悩はモノを書くことと言っていた。あらゆる煩悩を滅したらそれは仏だ。仏になることは絶対できない。仏道を学ぶことで煩悩を滅してきたが、どうしても書くという煩悩は捨て去れない。いや、むしろより良いモノを書くために仏道に入ったとも言える。深い言葉だ。

湿原の夕暮れ 

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山焼けと月.jpg湯川秀樹氏と司馬遼太郎の対談でこんな会話があった。湯川;さる大学の先生と対談したんだが、子供のような質問ですがと問い始める。子供が感じる疑問、大の大人が回りや世間体など気にしないで愚問を発する。これは素晴らしいことだ。学ぶことの姿勢が終生有るのがとても大切だ。愚問を発し続けられる人は素晴らしいと思う。 これも深い洞察である。

 

 

 

理論物理学者としてノーベル賞を受賞されたが、湯川氏の書いた書物を読むに、人とは何かを思索する巨大な知そのものではないかと感じるのだ。
 

下弦の月

下弦の月.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天の川を眺めた。とても近いところにそれはあった。小さいころの東京で見たそれ以上、間近にそれはあった。いつもあるのに普段は何も見えないし考えることもしない。

あまのがわ

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写真を撮る行為は適当に収めておいて、真っ暗闇の凍てつき始めたベンチに横になり、星雲の星々の中心を意識しているとまるで宇宙を彷徨して地上からではなく、横からや斜め上、あるいは真上から眺めている気分になった。まるで宇宙の彼方に心が飛んでいったかのようだった。

 

 

 


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